大いなる審判の日 聖なる圧倒と全ての破滅 (氏原) _ 世界ソドム会議 | 映画:高橋洋の『ソドムの市』公式HP

■ 大いなる審判の日 聖なる圧倒と全ての破滅 (氏原)

 なるほど、面白いですね。大門さんの話。言葉に対する不信感というのは何かあるんでしょうか。ぼくも絶対的にありました。何で言葉で言わなきゃいけないのか、という怒りがあって、ずっと言葉というのが分からなくて、何なんだこれは、と思ってました。たぶん、言葉が押し付けられたものだからなんでしょうね。自分で選んだものではないから。
 
 で、新谷さんの質問に答えて書こうと思ったのですが、世界像としてどう把握しているかというよりも、「世の終わり」という言葉の面白さに、最近、個人的な関心があってその話になってしまいました。また長いので、疲れました。

 「こうしてわたしは、世界の背後を説くすべての者のように、人間のかなたにある彼岸に、わたしの妄想をたくましゅうした。だが、はたして。それは人間のかなたにある彼岸だったろうか?
 ああ、わが兄弟たちよ、わたしがつくったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。すべての神々がそうであったように!
 その神は人間であった。しかもたんなる人間と自我の貧弱なひとかけらであった。わたし自身の灰と火影から、それは出てきたのだ。この幽霊は。まことに!それは彼岸からやって来たのではなかった!
 (中略)
 悩みと不可能、?それが一切の世界の背後をつくったのだ。そして苦悩に沈湎する者だけが経験するあのつかのまの幸福の妄想が、世界の背後をつくりだしたのだ。 
 疲労はひとっ跳びに、命がけの離れ業で、究極のものに到達しようとする。それだけがもうせいいっぱいの意欲である、このあわれな無知の疲労感、これがすべての神々を生みだし、世界の背後をつくったのである。
 (中略)
 しかし「あの世」は、人間にはなかなか見つからないようにできている。あの人間ばなれした、非人間的な世界、それは天国という虚無なのだ。また存在の腹が人間に語りかけるのも、腹話術師たる人間の声以外のものによってではない。」
 (『ツァラトゥストラはこう言った』第一部 岩波文庫 p.46「世界の背後を説く者」)

 ぼくは、この一節が好きで、良くここに立ち返ります。出来もしないことを自らに課して煮詰まった人間が、最初の自己陶酔から覚めることなく、ついに全ての重荷を弾き飛ばす全能の力が我が身に備わったと妄想し自滅する。それは、愚かで過剰な自己愛ですが、同時に最も人間的な弱さの露呈であると思えて、そうだ、これこそが魅力的な悪役の基本設定ではないかと思ったりします。
 神の特性の一つは、その例証不可能な存在にあります。子供は良く、神様は見えないからいないんだ、と言いますが、今になってみると、見えないという特性がいかに全てを都合良く受け入れるものであるかが、良く分かってきます。見えもせず、聞こえもしない純粋に主観的でしかない出来事を、さも客観的な世界とつながりがあるかに語ることは、語る者に無限の権威を与える安価な手段となりうるのです。新約聖書を読むと、その見えないものを用いる見事さ、そして子供の頃にはさっぱりピンと来ていなかった「裁きの日」のイメージの強烈さが伝わってきます。
 
 「兄弟たちよ。あなたがたに、はっきりと言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。」(ガラテヤ人の手紙 1?11,12)
 「わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」(ローマ人への手紙 2?2,5)
 「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生れたものは、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。」(ヨハネの第一の手紙 3?8,10)
 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。
 大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。
 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。
 そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、
 すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時が来ました」(ヨハネの黙示録 11?17,18)

 ユングの「ヨハネの黙示録」について書いた文章があって、(タイトルを失念)その中で、「手紙」を書いたヨハネと黙示録のヨハネとが同一人物であるとしたら、かなりの心的なストレスおよび清廉な信徒としての多年の禁欲生活のせいで、突然に怒りが爆発して性格が激変して書いたように見えると書いていましたが、第一の手紙からして、すでにかなりの素晴らしいぶっ飛びぶりのように見えます。罪を犯す者は悪魔、神の子は罪を犯すことが出来ない、という断定が出来る人であったから「黙示録」を書くことができたのでしょう。
 イエス・キリストの手法には、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイによる福音書 28?18)という言葉に現れるように、啓示を受けるということを特権的に少数の人が用いる権力への意志が伺えます。それが、例えば北アメリカのインディアンの誰もが啓示を受け、自分の生きる道をそれによって決める、という方法との異なりとして際だちます。同じ「啓示」という出来事が全く違ったもとして組織されているわけです。 
 しかし、啓示が特権的な少数のものとして寡占化され、キリストを後継する使徒たちが、その図式を踏襲したことと、「裁きの日」「最後の日」の厳しさはどう結びつくのでしょうか。
 そこに、冒頭のニーチェの言葉が重なってくるであろうと思うのです。ヨハネは誰にも為し得ない絶対の高みへと昇ろうとした、しかし、そのような抽象的な願望と自らの生身の欲望を持った人間としての存在との乖離を埋めることは出来ない。多くの信徒は、ヨハネにとって誤った道を進んでいく、人としての歓びの生活を全て打ち捨てても彼らの考えを改めることも出来ない。そこで、ヨハネは大いなる飛躍へと活路を見出すことになる。内なる憎悪と、欲望と、暴力を全ての終わりの日に結びつけようと考える。自らの正しさが示され、従わなかった者たちに永遠の罰が与えられる。そうなれば、ヨハネの生は完全に肯定され無駄なものではなくなるのです。(悪役としてのヨハネ像ですね。この設定でCG駆使の黙示録完全映画化をハリウッドとかやらないんだろうか。アメリカでは無理か。)
 つまり、「裁きの日」に降りてくるのは、神となった預言者であり、世の全ての破壊を願うのは、受け入れられなかった恨みを晴らし、人類そのものに復讐しようとする意志のゆえなのでしょう。
 ぼくは、天から発せられる絶対的な承認と否認、あるいは、聖なるものの降臨とそれにひき続いて起こる暴力と争乱の激発、聖霊の氾濫と、神の国の実現というイメージに、圧倒的な説得力を感じます。一部は、単なる復讐の説明が当てはまりそうに思えますが、だとするならば破滅の日に自分だけは生き延びたいと思わせる脅迫としての機能しか「終末の日」は持たないことになってしまいます。しかし、ぼくは、そうだとは思わない。全ての破滅が訪れるとき、聖霊が人間を乗っ取り、火のような天使の軍勢が山河を埋め尽くす日に、むしろ罪人となって滅ぼされることを人は望んでいるのではないか、とも思うのです。
 これが、「裁きの日」のもう一つの側面で、人を支配しようとすることだけではなく、自ら滅ぼされようとする熱望が含まれるのではないか。大いなる審判の日に、聖なるものは天と地を荒れ狂い、例外なく全てのものを破滅させ、闇へと帰そうとする。そこには、いかなる者の選びも救いもなく、ただひたすらに世界の死が、そして神の死が、宇宙の終わりがあるのです。そして、それこそが救いという言葉によって阻まれる実現されるべきことの、初めて起こる(終わる?)ときなのではないでしょうか。「終末の日」に、天の国が実現されるのではなく、天の国も共に滅んでいく、そうであって欲しいと、何でだか思います。別に怒りにかられて思うのではなく、それが良いことだと感じます。それと、そうでないと永劫回帰になっていくと思う。別に永劫回帰でも良いんですけど、それだとオチが付かないというか、物事には始まりと終わりがあって欲しいという願望もあるし、向こう側が侵入してくるということが、互いの破滅を伴わないはずがないという感じもあります。異なるものがぶつかりあい、最後のドラマが大規模に展開され、そして全てが無に帰する、という感じです。たぶん、そのとき神の国の方では人の国が襲いかかってきたように見えているんじゃないか、だから、二つの世界は退けあいながらも不可避に一つとなる二つの力によって均衡を保っていたわけですが、最後の日に、力は均衡を失って破滅のときが訪れる。(神の国と人の国には、上下の関係があるのか無いのか?というのが謎ですが)

 ということと、何らかの存在に見守られているように思う、ということが結びついているのかというと、それとこれとはあまり関係がない気もします。あまり首尾一貫した宇宙構造になっていない感じです。でも、たぶん根っこのところでは繋がっていて、向こう側の世界がこちらに侵入したがっている、という感触を抱いていることがあるかも知れません。まあ、こういうのが「世界の背後を説く者」の思考の仕方なんですけど。でも「向こう側がある」と考えると面白いということなんでしょう。

 で、何が変わったのかはよく分からず、でも、考え方の根幹で信頼感ができてしまったということはあると思います。