やっと岩淵達治インタビューのチェックが終わりました。構成してくれた畠山君と嶺君、ご苦労様でした。近日中にアップされます。黒沢さん・小嶺さんとのトークや、清水崇緊急帰国トークの紹介も書きました。これも俎渡海新聞に掲載されます(うわ、もう出てる!)。あとは小水ガイラ・インタビューですが、しまだ宣伝相が仕事で飛び回る間を縫ってテープ起こしやってくれています。あれだけ陰謀史観を延々と語られると、まとめるのはエライことでしょう。ほんとに地獄です。何で我々はこんなに次から次へと用事を思いつくんだ。
「一人一種」の話、素晴らしいし懐かしい。思えば、僕や塩田や井川は、岡山からやってきた小寺さんに「妖怪がいた!」と発見され、新谷さんと引き合わされたんでしたね。そこから『ソドム』は始まった‥‥。で、この話、往復書簡の冒頭にふったボルシェヴィズムやプロレタリア芸術運動ともつながってきますね。つまりボルシェヴィズムの中核にいたボグダーノフという思想家は、人類一人一人が「革命的」にならなければ「革命」は起こり得ないと言ったわけです。まさに大大大正論ですよね。しかしてボグダーノフと鋭く対立したレーニンは、そんなこと待っていたらいつまでたっても「革命」は起こるはずがないと、これまた大大大現実を突きつけてきて、一握りの「前衛」、職業的な革命家集団による権力奪取を実行したわけです。だがその瞬間から、レーニンの「革命」は新谷さんの言葉を借りれば「自己意識の変革」やら「理想社会実現のためのステップ」になってしまった。結果、やって来たのは官僚支配の国家体制だった。
プロレタリア芸術運動が辿ったのも同じような道筋ですね。作家個性を乗り越える集団性ということを謳い上げ、さらには作り手と観客の分離すらも踏み越えようとして、参加者数千人の一大野外演劇『冬宮奪取』をやってのけた。ツアーの宮殿に大群衆がウラーッ!と突入して10月革命を再現したわけですが、いやあ、気が狂いそうだったでしょうね。そこで人々は狂気とも夢ともつかぬ何かと一瞬の高揚のなかで触れ得たかも知れない。しかし、そんなこと続けてられないわけです。やっぱり観客は観客でいて、ブルジョワ演劇を見物してる方がいい‥‥。その辺のこと、岩淵先生がインタビューで語ってます。
じゃあ、映画はどうなんだってことですが、映画は演劇以上に作り手と観客の分離が宿命づけられ、職能化され、ある種洗脳の装置のような薄気味悪さを放っているわけですね。しかし、そのように極限化された「分離」がある故にこそ、大きな反転が起こりそうな気配もまた映画にはある。プロレタリア芸術運動の理論には、ハムレットやラスコリニコフの創造者もまた、シェークスピアやドストエフスキーという個性ではなく、その基盤をなした民衆の想像力であったというもの凄い屁理屈があるんですが、我々はそもそも映画と「誰のものでもない」ものとして出会っている。その匿名性は主体を隠蔽した洗脳装置のおぞましさと表裏をなすものでもあるとして、かかる忌まわしいものだからこそ、反転の可能性がはらまれる。アテネのトークで柳下さんや新谷さんと映画の断片性について話したのもそうした流れですね。我々は映画とテレビの洋画劇場で出会った。そこには放映枠やCMによってズタズタに断ち切られた、「作品」ではなくなってしまった映画の姿がさらされていたのだが、その断片の強さにこそ、自分たちは映画の可能性を感じたという。ブレヒトの「叙事」の概念が重要になってゆくのもそれ故だし、この断片がそれぞれ独立したものとしてつながってゆく語り口こそ、『ソドム』が追求したものでした。
で、ちょっと話がそれるんですが、アガサ・クリスティに『終わりなき夜に生まれつく』というミステリがありますね。先日、その映画化の『エンドレスナイト』というのを見て、これが傑作だったのです。『密室の恐怖実験』とキャストも音楽のバーナード・ハーマンも一緒で、姉妹作みたいな感じなんですが、古くはヒッチコックの『めまい』あたりまで遡るイギリス人の恐ろしい想像力が露わになっています。「終わりなき夜に生まれつく」っていいタイトルでしょう。元はブレイクの詩みたいですが。「一人一種」と聞いて、まず僕が思いつくのは実はこういうニュアンスなんですね。「終わりなき夜」っていうのはつまり、絶対救われることがないってことです。生まれながらにして救われないと。これは本当は出会わない方がよかった男と女が出会ってしまった話なんです。で、映画には描かれてないですが、原作には出会った瞬間、二人は互いが同族だと、同じ血が流れていることを察知する場面があるんです。つまり目的のためなら手段を選ばない、道徳も倫理も実は何とも思っていない本性を見抜き合い、おそらくはその本性ゆえにすでに一人や二人は殺しているだろうことを嗅ぎつける。そこから二人は離れられなくなる。
ここから、そこらの犯罪者が能書きでたれる超人思想まではあと一歩だろうし、まあ、実際の殺人カップルなんていうのは、ほんとにその程度の鼻持ちならない連中なのかも知れません。しかしそういう自己正当化の能書きを引っぺがした涯てに、見えてくるどうしようもない本性、救いのなさというものがある。それをその深さにおいて描けるのが、あるいは「悲劇」というフィクションの装置なんじゃないのか。僕は『エンドレスナイト』を見て、ああ、これが自分の出発点だし、また帰り着くところなんだろうなあと暗澹たる思いに捕らわれました。「一人一種」で生きていくという大らかな肯定性よりも、それは罰せられる存在なんだという否定性の方が僕は前面に出るのでしょうね。そもそも「救われない」という感覚が一神教的な「垂直軸」の世界観であって、新谷さんはそれとは逆のベクトル、多神教の横に野放図に広がっていく世界観ですよね。そして『ソドム』はこの両者の綱引きの中にあったと。
『ソドム』の評判、あれこれ聞いてみると、「垂直軸」が前面に出ているところ、つまり導入部とクライマックスなんですが、この辺はおおむね評判がいいようですね。まあ、僕なりにも一番計算が立ちやすい箇所ではあるんで、やはりそうかという感じではある。で、反応が分かれるのが真ん中のパートですね。思いつきが並べられているだけに見える人、バラバラに見える人、だから自主映画は!ってシャッターを降ろしちゃう人、やはりそういう突っ込みを許してしまう隙間がいっぱいある。しかし、今回やってみたかったのは、計算が立つ「垂直軸」ではなく、まさにこの「叙事的」に断片が並んでゆくことの可能性だったのですよね。鎮西尚一さんとかは先日、電話で感想を話してくれて、このある種スカスカの流れが大いに気に入ったそうなのです。ああ、そうかと、そういえば鎮西さんの『キラキラ星見つけた』もそういう感じですよね、と言うと、鎮西さんは大笑いして、「いやあ、僕は常本や大工原みたいに出来ないんでねえ」と。
こういう断片でつながってゆく感じ、その最も古層の記憶が僕たちにとっては『黄金バット』なのかも知れませんが、僕が映画を作り出してから、最も自覚的に反応したのは、やはりラングの映画なのです。特に30年代の『M』や『怪人マブゼ博士』に顕著なんですが、ハリウッドに渡ってからも、ラングの映画は決して観客が気持ちよくストーリーを消化していけるような流れを作っていかない。いちいち断片がこびりついて気持ちよい流れに抵抗しているところがある。ラング本人は「自分は視覚の人であって耳はダメだ」と発言していて、ラングの映画の流れの悪さはしばしばリズム感がない、テンポが悪いという風に括られてしまうのだけど、僕はこのズシン、ズシンと場面が提示されてゆく感じがもの凄く重くて好きでした。ここに映画が断片であることのしぶとさが現れ出ているように思った。ただ、これを編集で作り出そうとすると本当に難しいのですよね。僕と石谷は途中でどうしても切れなくってしまって、急遽、新谷さんと近藤君に入って貰って、一回素の眼で見て、特に前半部にバサバサ、ハサミを入れて貰いましたよね。あれでやっとテンポがつかめてきたという経緯があった。
断片ということ、日本映画で考えてゆくと、やはり大和屋竺ら具流八郎グループと森崎東の異常な作劇、ここに行き着きますね。最近はソドム関係者がやたら森崎東特集に駆けつけていて、この間、新谷さんにも忙しい合間を縫って『生まれかわった為五朗』を見て貰ったわけですが、森崎映画は嵐のように出来事が起こりまくってそれがウソのようにつながってゆく、その不可思議なドラマツルギーが魅力だったんですが、今回の特集上映で遅まきながら気づいたのは、その嵐のような出来事が空中分解寸前にまで行く、ある意味、失敗作と言われてしまうかも知れない作品群の重要性ですね。その1本が『為五朗』だったわけで。僕が一番好きな場面は海岸を行く為五朗がふいに緑魔子と財津一郎が抱き合ってる姿を幻視してしまうところなんですが、これ、意味としては男気で緑魔子を財津に譲った彼がやっぱり未練がこみ上げてくる‥‥といったことでしょう。シナリオ上も演出上もそういうことですよね。でも、全然そうは見えない。為五朗が何を思うかなんてどうでもよくなっていて、ただただ為五朗の幻視する抱き合う二人のヴィジョンが強烈に迫ってくる。このぶっ壊れ方は何なんだと。
で、どうも重要なのは為五朗の背後にうごめく海なんですよね。そして、この後、ヤクザに簀巻きにされた為五朗が海辺に流れ着くかなり怖い場面がやってくる。死んでいた為五朗を緑魔子が体であたためて甦生させて、新谷さんはそこで何で為五朗は緑魔子を抱かないんだとひっかかるわけですよね。僕もあれ?と思いました。そういうけっこう残酷な寝取り話は森崎映画にしょちゅう出てくるんで。かつ財津もピストルを手にしながら酔いつぶれてしまって、結局殴り込みにいくのは為五朗一人。ここにも新谷さんはひっかかるし、僕も財津が倒れた瞬間、あれ?と思う。何でなんだろうとあれこれ考えているうちに、ああ、海から戻ってきたのは、もはや為五朗ではなく、特攻機に乗って海の彼方に消えた緑魔子の父だったんだとハタと思い至ったわけです。遠い彼方に旅立っていった者が恐ろしい鬼神となって帰ってくるというテーマが森崎東にはきっとあるんだと。そういえば『ラブ・レター』でもあの中国娘のパイランは海の彼方からやってきてまたそこに消えていったように表現されていたし、中井貴一が雪の中に幻視する花嫁姿のパイランは為五朗の幻視とまったく同じだ‥‥。
何というか、妄執ですね。ドラマでもキャラクターでもないものが映画に介入し、暴走している感じ。映画という表現媒体が受け入れられるキャパシティの限界まで行こうとしているような。僕はここに凄い可能性を感じます。それはエンタティメントとしては単に失敗と引導を渡されるだけなのかも知れないけれど。
うーん、なかなか『黄金バット』の話にたどり着かないですね。まあ、あれは本当に難物です。結局のところ、あの笑い声がすべてなんじゃないかと新谷さんは言ってましたね。うん、ほんと何もかもが無効になる笑い。そうか、僕は「笑い」をあくまでリアクションに限定した使い方をしてましたが、このような無前提の笑いということまで含めてくると、僕のいう「ギャグ」という世界観を包括するものとして笑いはあり得ますね。それはむろん、人間が笑えるものではない。ただ絶望的で破壊的な笑い声が天上から響いているだけで。ナゾーは力一杯、ロンブローゾとナゾー・タワーと四つ目で対抗するしかないのです。そう言えば、ソドムの笑い声、アフレコのとき、浦井崇には黄金バットのようにと注文したのですね。そしたらあいつは『黄金バット』の主題歌を歌わないと笑い出せないという理解しがたい症状に陥って、悪かった、俺の言ったことは忘れてくれと頼み込んでやっと歌うのを止めて貰ったのでした。
「一人一種」の話、素晴らしいし懐かしい。思えば、僕や塩田や井川は、岡山からやってきた小寺さんに「妖怪がいた!」と発見され、新谷さんと引き合わされたんでしたね。そこから『ソドム』は始まった‥‥。で、この話、往復書簡の冒頭にふったボルシェヴィズムやプロレタリア芸術運動ともつながってきますね。つまりボルシェヴィズムの中核にいたボグダーノフという思想家は、人類一人一人が「革命的」にならなければ「革命」は起こり得ないと言ったわけです。まさに大大大正論ですよね。しかしてボグダーノフと鋭く対立したレーニンは、そんなこと待っていたらいつまでたっても「革命」は起こるはずがないと、これまた大大大現実を突きつけてきて、一握りの「前衛」、職業的な革命家集団による権力奪取を実行したわけです。だがその瞬間から、レーニンの「革命」は新谷さんの言葉を借りれば「自己意識の変革」やら「理想社会実現のためのステップ」になってしまった。結果、やって来たのは官僚支配の国家体制だった。
プロレタリア芸術運動が辿ったのも同じような道筋ですね。作家個性を乗り越える集団性ということを謳い上げ、さらには作り手と観客の分離すらも踏み越えようとして、参加者数千人の一大野外演劇『冬宮奪取』をやってのけた。ツアーの宮殿に大群衆がウラーッ!と突入して10月革命を再現したわけですが、いやあ、気が狂いそうだったでしょうね。そこで人々は狂気とも夢ともつかぬ何かと一瞬の高揚のなかで触れ得たかも知れない。しかし、そんなこと続けてられないわけです。やっぱり観客は観客でいて、ブルジョワ演劇を見物してる方がいい‥‥。その辺のこと、岩淵先生がインタビューで語ってます。
じゃあ、映画はどうなんだってことですが、映画は演劇以上に作り手と観客の分離が宿命づけられ、職能化され、ある種洗脳の装置のような薄気味悪さを放っているわけですね。しかし、そのように極限化された「分離」がある故にこそ、大きな反転が起こりそうな気配もまた映画にはある。プロレタリア芸術運動の理論には、ハムレットやラスコリニコフの創造者もまた、シェークスピアやドストエフスキーという個性ではなく、その基盤をなした民衆の想像力であったというもの凄い屁理屈があるんですが、我々はそもそも映画と「誰のものでもない」ものとして出会っている。その匿名性は主体を隠蔽した洗脳装置のおぞましさと表裏をなすものでもあるとして、かかる忌まわしいものだからこそ、反転の可能性がはらまれる。アテネのトークで柳下さんや新谷さんと映画の断片性について話したのもそうした流れですね。我々は映画とテレビの洋画劇場で出会った。そこには放映枠やCMによってズタズタに断ち切られた、「作品」ではなくなってしまった映画の姿がさらされていたのだが、その断片の強さにこそ、自分たちは映画の可能性を感じたという。ブレヒトの「叙事」の概念が重要になってゆくのもそれ故だし、この断片がそれぞれ独立したものとしてつながってゆく語り口こそ、『ソドム』が追求したものでした。
で、ちょっと話がそれるんですが、アガサ・クリスティに『終わりなき夜に生まれつく』というミステリがありますね。先日、その映画化の『エンドレスナイト』というのを見て、これが傑作だったのです。『密室の恐怖実験』とキャストも音楽のバーナード・ハーマンも一緒で、姉妹作みたいな感じなんですが、古くはヒッチコックの『めまい』あたりまで遡るイギリス人の恐ろしい想像力が露わになっています。「終わりなき夜に生まれつく」っていいタイトルでしょう。元はブレイクの詩みたいですが。「一人一種」と聞いて、まず僕が思いつくのは実はこういうニュアンスなんですね。「終わりなき夜」っていうのはつまり、絶対救われることがないってことです。生まれながらにして救われないと。これは本当は出会わない方がよかった男と女が出会ってしまった話なんです。で、映画には描かれてないですが、原作には出会った瞬間、二人は互いが同族だと、同じ血が流れていることを察知する場面があるんです。つまり目的のためなら手段を選ばない、道徳も倫理も実は何とも思っていない本性を見抜き合い、おそらくはその本性ゆえにすでに一人や二人は殺しているだろうことを嗅ぎつける。そこから二人は離れられなくなる。
ここから、そこらの犯罪者が能書きでたれる超人思想まではあと一歩だろうし、まあ、実際の殺人カップルなんていうのは、ほんとにその程度の鼻持ちならない連中なのかも知れません。しかしそういう自己正当化の能書きを引っぺがした涯てに、見えてくるどうしようもない本性、救いのなさというものがある。それをその深さにおいて描けるのが、あるいは「悲劇」というフィクションの装置なんじゃないのか。僕は『エンドレスナイト』を見て、ああ、これが自分の出発点だし、また帰り着くところなんだろうなあと暗澹たる思いに捕らわれました。「一人一種」で生きていくという大らかな肯定性よりも、それは罰せられる存在なんだという否定性の方が僕は前面に出るのでしょうね。そもそも「救われない」という感覚が一神教的な「垂直軸」の世界観であって、新谷さんはそれとは逆のベクトル、多神教の横に野放図に広がっていく世界観ですよね。そして『ソドム』はこの両者の綱引きの中にあったと。
『ソドム』の評判、あれこれ聞いてみると、「垂直軸」が前面に出ているところ、つまり導入部とクライマックスなんですが、この辺はおおむね評判がいいようですね。まあ、僕なりにも一番計算が立ちやすい箇所ではあるんで、やはりそうかという感じではある。で、反応が分かれるのが真ん中のパートですね。思いつきが並べられているだけに見える人、バラバラに見える人、だから自主映画は!ってシャッターを降ろしちゃう人、やはりそういう突っ込みを許してしまう隙間がいっぱいある。しかし、今回やってみたかったのは、計算が立つ「垂直軸」ではなく、まさにこの「叙事的」に断片が並んでゆくことの可能性だったのですよね。鎮西尚一さんとかは先日、電話で感想を話してくれて、このある種スカスカの流れが大いに気に入ったそうなのです。ああ、そうかと、そういえば鎮西さんの『キラキラ星見つけた』もそういう感じですよね、と言うと、鎮西さんは大笑いして、「いやあ、僕は常本や大工原みたいに出来ないんでねえ」と。
こういう断片でつながってゆく感じ、その最も古層の記憶が僕たちにとっては『黄金バット』なのかも知れませんが、僕が映画を作り出してから、最も自覚的に反応したのは、やはりラングの映画なのです。特に30年代の『M』や『怪人マブゼ博士』に顕著なんですが、ハリウッドに渡ってからも、ラングの映画は決して観客が気持ちよくストーリーを消化していけるような流れを作っていかない。いちいち断片がこびりついて気持ちよい流れに抵抗しているところがある。ラング本人は「自分は視覚の人であって耳はダメだ」と発言していて、ラングの映画の流れの悪さはしばしばリズム感がない、テンポが悪いという風に括られてしまうのだけど、僕はこのズシン、ズシンと場面が提示されてゆく感じがもの凄く重くて好きでした。ここに映画が断片であることのしぶとさが現れ出ているように思った。ただ、これを編集で作り出そうとすると本当に難しいのですよね。僕と石谷は途中でどうしても切れなくってしまって、急遽、新谷さんと近藤君に入って貰って、一回素の眼で見て、特に前半部にバサバサ、ハサミを入れて貰いましたよね。あれでやっとテンポがつかめてきたという経緯があった。
断片ということ、日本映画で考えてゆくと、やはり大和屋竺ら具流八郎グループと森崎東の異常な作劇、ここに行き着きますね。最近はソドム関係者がやたら森崎東特集に駆けつけていて、この間、新谷さんにも忙しい合間を縫って『生まれかわった為五朗』を見て貰ったわけですが、森崎映画は嵐のように出来事が起こりまくってそれがウソのようにつながってゆく、その不可思議なドラマツルギーが魅力だったんですが、今回の特集上映で遅まきながら気づいたのは、その嵐のような出来事が空中分解寸前にまで行く、ある意味、失敗作と言われてしまうかも知れない作品群の重要性ですね。その1本が『為五朗』だったわけで。僕が一番好きな場面は海岸を行く為五朗がふいに緑魔子と財津一郎が抱き合ってる姿を幻視してしまうところなんですが、これ、意味としては男気で緑魔子を財津に譲った彼がやっぱり未練がこみ上げてくる‥‥といったことでしょう。シナリオ上も演出上もそういうことですよね。でも、全然そうは見えない。為五朗が何を思うかなんてどうでもよくなっていて、ただただ為五朗の幻視する抱き合う二人のヴィジョンが強烈に迫ってくる。このぶっ壊れ方は何なんだと。
で、どうも重要なのは為五朗の背後にうごめく海なんですよね。そして、この後、ヤクザに簀巻きにされた為五朗が海辺に流れ着くかなり怖い場面がやってくる。死んでいた為五朗を緑魔子が体であたためて甦生させて、新谷さんはそこで何で為五朗は緑魔子を抱かないんだとひっかかるわけですよね。僕もあれ?と思いました。そういうけっこう残酷な寝取り話は森崎映画にしょちゅう出てくるんで。かつ財津もピストルを手にしながら酔いつぶれてしまって、結局殴り込みにいくのは為五朗一人。ここにも新谷さんはひっかかるし、僕も財津が倒れた瞬間、あれ?と思う。何でなんだろうとあれこれ考えているうちに、ああ、海から戻ってきたのは、もはや為五朗ではなく、特攻機に乗って海の彼方に消えた緑魔子の父だったんだとハタと思い至ったわけです。遠い彼方に旅立っていった者が恐ろしい鬼神となって帰ってくるというテーマが森崎東にはきっとあるんだと。そういえば『ラブ・レター』でもあの中国娘のパイランは海の彼方からやってきてまたそこに消えていったように表現されていたし、中井貴一が雪の中に幻視する花嫁姿のパイランは為五朗の幻視とまったく同じだ‥‥。
何というか、妄執ですね。ドラマでもキャラクターでもないものが映画に介入し、暴走している感じ。映画という表現媒体が受け入れられるキャパシティの限界まで行こうとしているような。僕はここに凄い可能性を感じます。それはエンタティメントとしては単に失敗と引導を渡されるだけなのかも知れないけれど。
うーん、なかなか『黄金バット』の話にたどり着かないですね。まあ、あれは本当に難物です。結局のところ、あの笑い声がすべてなんじゃないかと新谷さんは言ってましたね。うん、ほんと何もかもが無効になる笑い。そうか、僕は「笑い」をあくまでリアクションに限定した使い方をしてましたが、このような無前提の笑いということまで含めてくると、僕のいう「ギャグ」という世界観を包括するものとして笑いはあり得ますね。それはむろん、人間が笑えるものではない。ただ絶望的で破壊的な笑い声が天上から響いているだけで。ナゾーは力一杯、ロンブローゾとナゾー・タワーと四つ目で対抗するしかないのです。そう言えば、ソドムの笑い声、アフレコのとき、浦井崇には黄金バットのようにと注文したのですね。そしたらあいつは『黄金バット』の主題歌を歌わないと笑い出せないという理解しがたい症状に陥って、悪かった、俺の言ったことは忘れてくれと頼み込んでやっと歌うのを止めて貰ったのでした。