「他者性」ということ(高橋) _ 往復書簡 | 映画:高橋洋の『ソドムの市』公式HP

■ 「他者性」ということ(高橋)

 この往復書簡ですが、先の新谷書簡あたりから、「幻の俎渡海城」のBBS「屋根裏部屋」の議論とリンクしまして、それらを受けての返信というちょっとややこしい展開になってますが、一応単体でも読めるような形で書いてみるつもりでおります。でも、興味のある方はどうぞ「屋根裏部屋」の議論、覗いてみてください。

 で、森崎東の『街の灯』ですが、これはビデオで出ています(『生まれ変わった為五朗』はたぶんない)。僕は森崎特集上映では見られず、20数年ぶりにビデオで見直し、これを書いている次第です。
 まあ、新谷さんとは以前電話で話したことの繰り返しになってしまいますが、一応前提としていうと、森崎映画はしばしば、思想や理想主義の押しつけの傾向があるとして、いわゆる正統的な日本映画の価値観から批判にさらされてきた、という経緯があるのですね。で、僕はずっと、いやその批判は違うのではないかと主張してきた。今回の特集上映で改めて見て、確認できたことなんですが、あまりにもメチャクチャな登場人物が3人いました。『為五朗』のハナ肇、『街の灯』の笠智衆、それとテレビドラマ『幻の特攻隊』の西村晃です。僕は「感情移入」という言葉が嫌いで、自分の映画でも決してそんなことは意図しないのですが、この3人はそもそも「感情移入」できるかどうかといったレベルからもまったく切れている。メチャクチャな人間ならメチャクチャという形で一個のキャラクタライズがなされているのが、通常の映画の価値観であろうし、新谷さんが書いた『街の灯』の展開案はきっちりそこを踏まえていると思います。しかしこの3人は言ってることもやってることもバラバラで、新谷さんが言う通り、何を考えているのかさっぱり判らない。だが、それは森崎東のイデオロギーを代弁する操り人形だからそうなっているのかというと、仮に操り人形にするのだとしたら普通もっと巧妙にやれるはずだし、そうしなければ意味がないのです。森崎・山田コンビに『なつかしき風来坊』というのがあって、ここでもハナ肇が異人として現れ、平凡なサラリーマン有島一郎の生活をかき乱しまくるのですが、これは『男はつらいよ』にもしばしば見られるモティーフの一つですね。主人公の破天荒で開けっぴろげな言動に触れて、いくぶんインテリっぽい人が本当の人間の生活に目覚めるといった展開はこうした映画群では巧妙に達成されているし、その分、僕はかえってイデオロギーっぽく感じてしまうのです。
 ところが森崎東はいざ自分でやるとそこがぶっ壊れてしまうのです。ごくまっとうな映画的生理というのが誰にでもあると思うのですが、その生理が受け入れがたいところまで行ってしまう。僕は森崎さんと旅館にこもって何本か企画を練ったことがあるんですが、そこで触れたのは、森崎さんの実に不思議な生理でした。ここがひじょうに説明しづらいし、誤解を招く言い方になるかも知れないのですが、森崎さんは繰り返し、重要なのはキャラクターを描くことだと言う、それは小津直伝のまことにもっともな骨法なのですが、話していてジワジワと奥底からせり上がってくるのは、いや、この人は「プロット」の人なんじゃないかという感覚なのです。ストーリーを練っていると、必ず出てくるのが、権力悪(警察やヤクザ)に虐げられた弱者を善意の人々が救出しようとするという、森崎映画おなじみの「足抜け」話のパターンですね、あれが繰り返し浮上してくる。まさに図式的であり、イデオロギッシュとも言えるわけで、僕はそこで「いや、それはタメにする設定じゃないですか」と反対すると、森崎さんは「うーん、そうだよなあ」と考え込む。でも、物語はどうしてもそこに向かおうとする。僕は関わってないですが、新作『ニワトリはハダシだ』もそういう構造にやはりなっています。
 ハナ肇たち3人の登場人物には、この森崎さんの生理が突出した形で表れているように思います。メチャクチャだから言動がとりとめないのではなく、この映画的生理に抵触する受け入れ難さは、相矛盾するプロットが一人のキャラクターの中にぶちこまれてしまっているからじゃないのかと。で、これが実に誤解を呼ぶ言い方になってしまうというのは、こういうプロットのしわ寄せがキャラクターの言動をギクシャクさせるのは、通常、シナリオ上の失敗とみなされることなのです。だが、松竹でもトップクラスの脚本家である森崎さんがそんな問題に気づかないはずがない。新谷さんがオアシスかタールかの話してましたね。新谷さんに読んで貰ったのは、『党宣言』製作当時、約20年前に山根貞男が行った森崎インタビューで、『にっぽんの喜劇映画パート2森崎東』に載っています。山田洋次が映画は現実のタールではなく、オアシスの夢を観客に提供すべきだという立場であるのに対して、森崎東は自分はタールの要素を入れたいという。それはそれで判りやすい話なんですが、僕があのインタビューでひじょうに心動かされたのは、山根貞男が「でも観客はタールなんか見たくないじゃないですか」と挑発して(この鋭い挑発が他のインタビューに類を見ない面白さなのですが)、「商品」というドデカイ問題を提起してきますね。そこで森崎東は「うーん」とうなって、けっきょく自分は「芸能」なんじゃないかという、ここなんです。「芸」というのは、たとえば森繁久弥のもの凄く洗練された芝居であって、森崎東はそれは素晴らしいのだけれど、自分はそれが「芸」として完結される手前で崩したいと思う。その感覚が「芸能」であって、早い話が、ゼニをとらない、誰もが演じ手や見物人になれる花火大会や盆踊りや宴会(タダ酒の)が一番いいんじゃないかというところまで針が振れてしまう。ここから自主映画やら地下映画まではきわめて近い距離にあるわけですが、しかして、やっぱり森崎東にとっては「商品」という形態しかあり得ないと立ち返り、でもやっぱり「商品」は嫌、という、自分でもないものねだりって言ってましたが、僕が興味を惹かれるのは、オアシスかタールかではなく、どうやら映画というものが森崎さんにとってはそもそも「異物」なんじゃないかという、そこの振幅の部分なんですね。彼の少年時代の原風景であるところの、「たかが影絵芝居」と嫌味を言ってスクリーンに背を向けてしゃがんでいたジイサンたちの姿、あそこからずっと引きずってる異物感なんじゃないか‥‥。
 この映画が異物だという感覚、これが実は僕と新谷さんのベクトルの違いとも関わってくるのかなというのが、さしあたっての僕の試論ですね。新谷さんと森崎映画の話をしていると、新谷さんはよく、そこは自分が住める世界ではない、受け入れて貰えないといった言い方をしますね。僕はそういう風に映画を見たことがないので、けっこう意外なわけです。つまり僕にとって映画は住めるも、受け入れられるもない、禍々しい異物だから。ここが僕の一神教的感覚と新谷さんの多神教的感覚の違いともつながってくるのではないか。森崎映画ではしばしば映像が恐怖的に現れますね。『街の灯』のテレビに映る栗田ひろみはまさにそうだし、同じような残酷な趣向は『フーテンの寅』でもやってました。大晦日の夜にさくらたちがテレビを見ながら寅の話をしていると、テレビの街頭インタビューにいきなり寅が映ってしまう。そこで寅はいるはずもない妻や子供のことをペラペラとしゃべり、さくらたちはいたたまれない思いで見つめるしかない。こういう映像の使い方に僕ははっきり同じ「血」を嗅ぎ取ったのですよ。あと、今回気づいたんですが、森崎さんは鉄格子撮るの好きですね。『街の灯』の留置場の場面で栗田ひろみを鉄格子越しに捉えた画面は、そこだけ抜き出したらまるで『夜半歌声』の恐怖映像でした。で、例の3人は、先の書簡にもちょっと書きましたが、3人とも海の向こうからやってきている、少なくともそういう背景を背負っている。これはいったい何なんだ‥‥。そこで森崎東は思想やイデオロギーとは違う次元で映画とクラッシュしてしまっている。映画を撮る以上、誰だって映画という媒体性と幸福に出会いたいと願うし、そうやって作ったものこそが映画から愛でられるに違いない。でも、そういう媒体性そのものに激しい違和を感じてしまう者たちがいる、僕はどうもそう思えるのです。
 その映画の世界に自分が住めるかどうか、受け入れて貰えるかどうか、これは面白い視点でもあるので、僕なりに考えてみたんですが、たとえば僕は『アメリカ刑事』に出ていますが、殺戮を命じる役、加害者ですね。ああ、そうか自分は「加害者」という回路を通せば、映画に違和を覚えずにいられるんだと思いました。被害者だとウソになるんですね。あるいはあのメチャクチャに楽しいジョン・フォードの西部劇はどうか。これはもう加害者でも被害者でもない、死体ならいられるなと思いました。まあ、すぐに死体になる必要もないけれど、頭の上で禿げ鷹が舞い飛ぶ辺りからならあり得るなと。要するに相手は荒野であって、自分はモノに過ぎないわけですから、これならウソはない。で、最も高い理想は(ジョン・フォードも近いと思いますが)、新谷さんがいうところの『黄金バット』の全員キチガイ状態。で、いきなりですが、僕は『黄金バット』のキチガイ状態って一神教だと思うのです。新谷さんは黄金バットのシルバーバトンがどんな巨大なものとぶつかっても、ピタリと止めてしまう、まったく微動だにしないのが素晴らしいと言いますね。それが僕のいう一神教の感覚であって、つまり「絶対」ということです。「絶対」は「絶対」なんであって、ほんのわずかも揺らぎがあってはならない。だから『黄金バット』の世界では紅海が割れるようなこと、創造主であるからこそいともたやすく法則を変更できる、すなわち紛うかたなき奇跡が起こりまくってるわけです。
 しかし、新谷さんと一神教の話をしていると、新谷さんは一神教を多神教の一種と捉えているようにどうしても思える。そこのズレが二人のベクトルの決定的な違いなんじゃないでしょうか。つまり新谷さんは「神」をそれと指し示せる。でもそれと指し示した瞬間、もうそれは「神」ではないのが一神教であって。故に僕は、『ソドム』のクライマックスの斬り合いを、みんな笑いながらやったらどうかという新谷さんの提言にどうしても首肯できない。演出の技量そのものの限界もありますが、それはウソになってしまう、ウソだと思いながらやったら「押しつけ」になってしまうと思うのです。「押しつけ」というのはこの殺し合いの場に、観客も含めたみんがが参加できますよ、住めますよ、ということが、きわめて「親和的」なメッセージになってしまうのではないかということですね。僕は映画に対して「親和的」であることが信じられない。異物として絶対性がまずあるのです。僕はこのことをとりあえず「他者性」という言葉で呼んでいます。実は『牛乳屋フランケン』でひっかかったのはそこなんです。以前、葛生君(はてなダイアリ?で映画評書いてます)から「他者性」の観点から『フランケン』をどう見るかと問われて答えたんだけど、僕はラッシュを見たとき、本当に衝撃を受けて、それは圧倒的に誰のモノでもない「他者」であった。だがつながってゆくにつれて、とにかく参加者みんなが楽しんだんだ!という、実際『牛乳屋フランケン』はその試みが刺激的だったわけだし、ウソはないのだけれど、映画の「他者性」ということに照らすと、その「親和的」な雰囲気が一種のメッセージのようになってしまう。どこか楽天的な「押しつけ」の感じがやはりするのです。
 ウチの妻の『ソドム』評が「屋根裏部屋」でちょっと紹介されましたが、素人の出演者たちが松村博士を除いてみな同じに見えたというなかなか鋭い批判ですね、ただ、あれは新谷さんの解釈とはちょっと違うのです。妻が言ってるのは、素人の出演者たちがみな同じ空気の持ち主だった、つまり「内輪」性、「身内」性が出てしまったということなのです。これは「集団性」ということをテーマにした『ソドム』の現場にあって、一種の両刃の剣でもあったわけで、故に僕には鋭く突き刺さる批判であったのです。で、松村博士にはチャンとドラマが与えられていたから「感情移入」が出来たという、実に大オーソドックスなエンターティメントの骨法を言ってるわけですね。妻の意見ってだいたい一瀬隆重の意見と一致するんで、僕にとってはひじょうに貴重な視点なんですが。むろん、僕の演出スタイルとの関わりもあると思います。僕は自分を脚本家と自己規定したことはないし、脚本にも台詞にもこだわらないですが、人間をある鋳型にはめたいと強烈に思うのです。特に重要なのは声のトーンで、そこは岩淵先生に指摘されましたね。本当はもっと自由に動かした方が生き生きとした画が撮れるよなあと8ミリ時代からずっと思い知らされてることなんですけど、映画との関係がギクシャクしないと嫌なんですね、きっと。その鋳型にはめ込んだが故に出てくるパワーというところまで、僕の力量はなかなか行き着かないですが。
 さて、だいぶ長くなってしまいましたが、新谷さんの漫画の話ですね。これも新谷さんには以前、話しましたが、僕は新谷さんの漫画を読んで、キチガイ呼ばわりしたり、泣き出したりする編集者がどうにもピンと来ないのです。少なくとも僕ぐらいの世代で漫画をある程度読んできた者なら、新谷さんの漫画は判るはずだし、「商品」としてパッケージすることも可能だと思うのです。むろんバカ売れということではなく、長い時間をかけてコツコツ売ってゆくものだと思いますが、不幸にして漫画は昔も今もそのような流通形態を持たなかっただけで、他の出版物ならいくらもありますよね。だから新谷さんの漫画に対する編集者の反応は、漫画独自の流通形態に規定されてしまった意識のせいか、あるいは穿った見方をすれば、チャンと読んだ上で、しかしこれを流通に乗せる回路が自分にはないという真摯な絶望の表れか、だと思うのです。決して作品そのもの、表現そのものが激しい拒絶に合ってるわけではないと。ただ新谷さんは自分の漫画について語るとき、しばしば編集者の反応に触れて、そこから自己規定してしまっているのではないかと、そこが気にはなるのです。